映画と人生と週末頭痛

今週末は土日ともに映画館にいた。それぞれ『海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン』『星守る犬』を観たのだけれど。以下ネタバレあり。

30年経って、宇宙刑事ギャバンを銀幕で観ることになるとは…。内容としては「大葉健二無双」の一言に尽きる。ゴーカイジャーの映画なのに、BGMが当時の宇宙刑事ギャバンの劇伴の最新アレンジ版が要所要所に流れて。燃える。さすがに歌つきではなかったが。

しょっぱなからのゴウカイジャー相手のギャバンの立ち回りがイカす。至近距離でのレーザーZビームとか、レーザーブレードから伸びる光線を捕縛に使うとか。終盤のギャバンブートレグとの斬り結びからギャバンダイナミックで心拍数が上がってまぁ、なんだ、往年のファン大喜びの「見たいシーン」てんこ盛り。

近年の戦隊での悪役、次期戦隊のゴーバスターズといった客演も楽しく、だれる展開ナシで一気に観てしまった感じあり。夏の映画(幽霊船のやつ)のときは、なんかマーベラスと怪人の一騎討ちで眠っちゃったんだよな…

電子星獣ドルのデカさもよかった。もっと観たかったなー。サイバリアンとか、洞窟を巨大な岩が転がってくる(当時はレイダースのパロディ的にそういうシーンがあった)とか、土星の輪の上(書き割りとの合成だったやつ)で戦うとか、当時ならではのファンタジー溢れる特撮シーンの現代アレンジを観たかった。

ラストシーンで、単に変身前を大葉健二が演じているというつながりで、バトルケニア、デンジブルー、ギャバンの同時変身が見られるというサービスもそうだったけれど、各所で最近の子供置いてけぼりの描写でお父さんお母さん向けみたいなのがあって、いちいちニヤニヤしながら見てましたわ。ギャバンの蒸着プロセスを当時をリスペクトした(モザイク表現とか)最新技術で見られたり、いいですね。

パンフレットのギャバンの特集ページ、ギャバンの父ボイサーが、マクーに拷問されていたが息子のギャバンに再び会うために耐えていたというくだり、道徳の教科書っぽいことが書いてあるのだけれど、ちょっとウルッときた。
シャリバンの父親(キャンプ客を熊から守るために犠牲になり死亡)のエピソードもそうだし、そう考えてみれば、昔にみた特撮は、ヒーローとその家族みたいなところも、なかなかに重いテーマがあったよなぁ、ということを思ってしまった。

かたや、日曜に観た『星守る犬』は、家族とのシーンを絡めつつ「おとうさん」の死に至るまでの旅路が描かれるんだけれど、これはこれで諸行無常というか。諸行無常の中でも人は幸せを感じるし、「ただ、一切は過ぎてゆきます」というようなところまで、考えてしまった。

人間は死に至る動物なのに、明日、生きているかどうかなんて誰にもわからないんだよな。生きているかどうかどころか、明日ちょっとした何かが起こるかも、みたいなことすら、基本、どうにもならない。

「幸せ」という概念自体、人間が生み出したものだし、所詮その人の感じ方次第みたいな、そういうものではあるけれど、どうも「社会」っていう不自然なものに囚われると、その尺度から何から、狂わされてしまうらしい。
日常にあって、自分が幸せを感じられるならそれでいい、はずが、何がなければ満足できない、他と比べてこうでなければ並び立てない、そういうものに苛まれてしまう。

主人公の「おとうさん」はおそらく「普通に」人生を送ってきたのだ。山も谷もあったにせよドラマチックなほどではない、ああ、こういうものなのだろうな、という範囲内で生きているし、それもあって極端な浮ついた気持ちも、極端な絶望もない。そういう人が、人生の終わりを意識しつつも、愛犬(しかも、そもそも犬嫌いであったというところが、流れで人生が構成されている感を強める)と行き当たりばったりの旅をしている。

そしてその(すでに死んでしまった男の)旅を辿っていく役所の若い男と、家出同然のまま合流した少女の旅路。

人生を全うした男の足跡を追う、というのは僕の興味がある(ストーリーテリングとしての興味)ところで、『ゴッドファーザーII』もそうだったし、『ビッグ・フィッシュ』もそう。仮面ライダーキバもそういう話だといえばそうだ。好まれるモチーフなのだろう。

そこに描かれる「暴かれていく」人生の軌跡ってのは、とんでもなくドラマチックなわけでもなく、喜怒哀楽に溢れていたかもしれないが激しくはなく、ジェットコースターのようなスリルも、そんなにない。
家族がいて、友人がいて、関わる人々がいて、ただその一つ一つがとても(当人にとって)大切であったし、ドラマもあるといえば、あった、というそういう落とし所になることがほとんどだ。

人生は、そういう幸せのピースみたいなもんの組み合わせであることを、映画は、物語は教えてくれる。

ぼくは生き急いできたつもりはないけれど、人生の充実というのは、どれだけドラマティックな出来事の連続であるか、というところを、若い頃から考えてきたのだな、とは思う。「なんでもないようなことが幸せだったと思」うには、まだ若い、刺激的な人生を諦めるのはまだ早い、と。

案外、人間は時間をヒマに転換して潰してしまうし、どうしようもつまらないことにお金を使ってしまうし、寿命があるってのに、それまでの時間を充実させることができずに消費してしまう。
そんなもんなんだ、それが大半の人としての生き方なんだ、特別なものなんて、ありゃしない(全ての人の人生は、その人にとって特別なものであって、他の人から見たら特別ではないってこと)と気づくまでに相当時間がかかった。

だから、自分が楽しまないといけない、誰かに邪魔されるなんてもってのほか、ストレスは無いにこしたことがない。そういうふうにしていかないと、自分で自分の人生の時間を「責任をもって無駄にできない」のである。

そんなことを考えていたら、また週末頭痛がやってきてしまって、面倒くせぇ体質だなと思いながら、頭痛薬を飲んだり、あたためる湿布みたいなのを首筋に貼ったりしていた。

最近は、死んでしまいたくなるほどの痛みは出なくなってきたのと、だいたい発生するタイミングがわかってきたので、予兆のときに頭痛薬を飲んだり、温めたりできるようになったのが、ちょっとした進歩だ。

頭痛持ちになって15年以上、いつかこれで死ぬんかな、と思うことは何回もあって、とりあえず死なないでいてられるし、人生においてそれほど特別なことがわざわざ起こらなくっても、幸せだと思えることは幾度もあったし、これからもあるだろう。感じ方次第というところもあるわけですから。

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