ゲームと李徴とハノイの塔

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新年の初呑みということで(といっても飲み食いよりも話のほうが多かった)、某ソーシャルゲームのPとDと3人で4時間くらい過ごす。

昨日がぼくの誕生日ということでプレゼントをいただいた。「ハノイの塔」言わずと知れた、パズル。
3本の柱のうち左端に円錐状に重ねられた円盤を、「一回に動かせるのは一つ」「小さい円筒の上にそれより大きい円筒が重なってはいけない」という2つのルールのもと、右端に移動させるというそれで、なんと「リーダーシップ」の何たるかを知ることができるという。

基本、ハノイの塔は、一番小さい円盤を隣に動かすことの繰り返しになる。一番小さい円盤(リーダー)が動いてはじめて、大きな円盤(チーム)が動かせ、その集合体である円錐(組織)が動くのである。

・円錐をどの柱に移動させるのか。それがブレるようではリーダーとして率いていけない。チームを隣の柱に動かすことが、最終的に円錐をさらにその先の柱に動かすことができる(マイルストンの重要性)
・「元に立ち返って次の手を打つ下地を置く」というのがいつでもできなければならない。(4手目で元々一番上に載っていた小さい円盤を一旦、元の柱にもどすことになるが、これができないで詰まる人がそこそこいるのだという)
・次の一手が着実に打てる状況がほとんどなので、迷わず打つ。

等々。
実際世の中の出来事はシンプルなルールがいくつかと、それ相応の手数で成り立っている。
人には性格もあるので、ハノイの塔のようにすんなりと隣へ(次へ)動くもんではないけれど、リーダーシップの何たるかを模式化するのに、シンプルなゲームを使うのは面白い。

それ以外に、当然業界の話なんかもするのだけれど、それはそれとして、文学の話も楽しかった。漫画もアニメも表現手段が文字からリッチ化しただけで十分「文学性」があるとしたら、果たしてレガシーな「文字だけ」の文学をいまだに追いかけるのはどうかという話題や、ゲームという「表現手段」での文学を考えた場合にコストとユーザー体験のバランスは、あまりよくない(大衆に届けるにはそれなりにコストかかるし、その回収まで考えるともうそこには手段としての合理性がない)というのはすごく納得の行く話だった。

そんな中で。

ゲームのクリエイターとプロデューサーの関係を、「山月記」の李徴と袁傪に例えたのは面白かった。クリエイターは「虎(李徴)」であるべきという観点で、(ぼくはもともと李徴は小者だなーという印象を持っていたのだが、そうではなく)虎は虎を貫いて初めて、袁傪たるプロデューサーはそれ(クリエイターのつくったもの)を書き留める(世に出す、売上をつくる)ことができるのであると。

実際の話はもうちょっと具体的に(一緒に仕事をしていた頃の話も混ざるので余計に)エキサイティングだったんだけど、概ねこういう調子だった。

そういえば、なんでソーシャルゲーム(ケータイゲーム)業界がいわゆる「著名プロデューサー」を輩出しないのか、みたいなことも話した。「ゲームで売り、IPで売り、次に誰が作ったかで売り、最後にネタ切れするんじゃん?」というのがまあ、そんな流れ、オチなんだろうけれど、かつてのコンシューマーゲーム業界は、意図して、ブランディングの一環として、ディレクターやプロデューサー、あるいはチーム名を前面に出してきたのだと思う。

けれど、現在のケータイゲームは、さっきの例で言えば「ゲームを表現手段とした文学性」なんてのはまったく不要だったりするので、そういう作家推し的なブランディングをする意義がない、というところもあるんじゃないかと思う。
まぁ、その実、まねっこゲームが多い業界なので、(ぼくの大好きな)「これ、オレ、ドヤァ」と前に出るのがクソ恥ずかしいってのは、あると思うわ。

ただ、ネトゲの運営をやってたときにぼくが前面に出ていた理由は「海のものとも山のものともつかないネトゲというモノ」への怪しさ、不安を払拭するために「こんな人が運営しています」という顔出し(まるでスーパーの野菜コーナーに、生産者の顔写真が貼ってあるように)が必要な時代だったから、というものなので、そういうのも、今の時代には不要(ソーシャルゲームのブーム的に、そういう時期を通り越してメジャーになってしまった)なのだろうという気もする。

そんなわけで、とりとめのない話の中にも、いろいろヒントはあって、まあ、辰年だけれどクリエイター諸氏は虎を目指すのがいいんじゃないでしょうか。

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