今年もよろしくお願いします!!!!1111

2012年になりました、今年もよろしくお願いいたします。

正直、僕の中では、年が変わったからどうとかいうイメージが、全然湧いてこない。新しくなにかをしようとか、新たに目標を立てようとか、そんな感じにいまひとつなれないというか。

2011年は、二つの「どうにもならないもの」を目の当たりにさせられた。
一つは、地球という、人間の小賢しさで補う程度ではどうにもならない大きい力(ガイアとでも呼べばよいのだろうか)のことであり、
もう一つは、貨幣経済という、人間が作ったもののくせにどうにもならなくなっている概念のことである。

「今頃気づいたか、アホが」というのを、地球という物理と、社会の流れの両側面から突きつけられた感じがある。

ガイアとガイネン。

世界各地で地震や自然災害が相次ぎ、多くの命が失われた。(日本はまだ、地震災害への経験もあった、少なからず対策も事後の活動も、2011年やその前に発生した他の地域での大地震に比べて行き届いていたと思う。)

しかし、自然現象というのはこれからもずっと脅威だ。天候気候も、僕の住む日本について言えば、「梅雨」や「冬」というのを拡大したかのように亜熱帯的な雨期と、凍えるような寒期が半年単位で切り替わる地域になってしまっている。
四季折々とか、すでに夢幻のものであると感じている。ここ30年で、花の咲く、虫が飛ぶ、そういう時期の感覚が、ほんとうにズレてしまった。

そして、日本では地震とともに原子力発電所の事故が発生した。大事故があって初めて、原子力発電所というのは、都市(というか日本全国)から地方に向けた富の再分配のシステムの一つでしかなかったことを切実に感じた。
道路や線路を曳いたりするよりも大層危険なものをそのシステムに充ててしまってきていたのだと、それまでの関心の有無によらず、電力を享受しているだけの、消費しているだけのつもりであった地域の人々も気づいてしまった。巨大で危険でわけがわからないシステムを動かすと、カネが動く、そういう「道理」がこの世の中にあり、半ばひずみを受け容れながら、人は暮らしているし、そうして暮らさねばならない状況もあった。

人々の生命や生活に関わるものに関わらず、ウソかホントかわからない政府や電力会社の発表と、それに右往左往する国民という状況も続いた。
原子力発電がなくてもなんとかなっているのではないかとか、輪番停電で電力が足りないことの恐怖を煽られたのは何だったのかとか、そこここで検知される通常の範囲を遥かに超えた放射性物質だとか、とにかく、いったいその落とし所はどこにあったのか、最後まで報道されたのか、もうグダグダの範囲を通り越してしまって、なんだかよくわからない出来事ばかりだった。

そうこう言っているうちに、なんとなく時がすぎることに慣れて、麻痺してしまう、しまっていくのも怖いことだ。

狭窄な視野であるとは自覚しているが、これまで「自分の寿命が来るまで何もおきなければ」という選択を誰もが、幾度も、してきて、その切れそうな糸が幾重にも重なってなんとか今の日本がある(あった)のだな。

加えて、ユーロ経済の危機もそうだけれども、お金とその価値は、そもそもなんなのかみたいな出来事が、少なくとも、一箇所や二箇所の話ではなく発生した。経済って一体何だったのか。経済政策とは何なのか。僕らのような安穏とした日本での言葉の上だけの議論ではなく、働けない食えないが恒常化しているところで、暴動や内紛といった発露が見られた。

そんなこともあって、2011年は、日本人にとって、地震を通じて、経済の危機を通じて、どういう「社会」へと復興させなければならないのかということに気づかされた、そういう年だったんじゃないかと思う。

じゃぁ、僕はどう生きよう。それが2011年通じての僕の最大の悩みであった。
「明日全てが無に還る。」それが遠くないうちに、物理的にも、経済的にも、起こりうる。
そうなら、そうであるなら、単なる動物でしかない人間として、どう生きたらよいのだろうか。

そんなことは、それまで考えたことがなかった。
子供の頃に抱いた「1999年になったら空から恐怖の大王がやってきて地球が滅びる」という空想よりも、もっとプリミティブなところで、人間は、人類は、脅かされている。

「まぁ、なんとかならぁな」と言ってカラカラと笑ってのけるには、単に人が一人の寿命だけを全うして逃げきるには、あまりに重圧
のかかる、時代になってしまった。

自分のライフワークに関わるハナシをすると、だ。
人類の、とりあえずのヒマなら、いっときの種族的プレッシャーから気を紛らす時間なら、ゲームで潰せるだろう。けれど、それが全て「遺すべき未来」を生み出すための明日の活力の源となれるか、といったらまだ僕には疑問がある。そんなことを考えてしまうのは、自分の関わっている業界である「オンラインゲーム」が、これから人々が遭遇する荒廃した世界に役立てる道があると信じているからだ。

ゲーミフィケーションという言葉がある。これは日常生活にゲーム的な要素を取り込んでいこうという試みだ。だが、僕の考えはまったく逆で、ゲームが(ゲームの姿であることによってやや限られた人々のものとなっているものが)、日常を救うというものだ。
アプローチの違いだけで、行き着くところは、似たようなところだろうとは思うけれど。
明日のその明日に、荒廃した大地で、人々が(かつてゲームと呼ばれたそれで)コミュニケーションをし、コミュニティを育て、分断された社会を繋ぎ、立てなおしていく。そんな日が来る。

何を言っているのかわからないかもしれないが、僕にもわからないので大丈夫だ(汗

広告

コメントは停止中です。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。